北海道新幹線が開通して半年が経ちました。乗客数などは順調に推移して
新しい観光ルートも出現しているようです。そこでこのコラムでは北海道
新幹線を利用して石川啄木の足跡を辿る旅プランニングしてみました。
新幹線と啄木?たしかにイメージが合いませんよね。啄木の旅、ならやっぱ
り蒸気機関車に曳かれた客車と青函連絡船がぴったりしますが、いまやその
両方とも乗ることが出来ません(一部の観光SLや展示船を除きます)。
現代には現代の旅の仕方しかありません。あとは想像力の勝負です!
ごく自然に文学散歩風の旅になると思いますが『一握の砂』の文庫本を
手に北へ向かう旅に出てみましょう。
啄木の旅、最初の降車駅は盛岡になります。啄木は1886年(明治19年)
岩手県日戸村(現在は盛岡市)の常光寺という曹洞宗の寺に生まれました。
翌年一家は父の転任(住職としての異動)により渋民村(現在は盛岡市)に
引っ越します。ここで渋民尋常小学校、盛岡高等小学校、盛岡尋常小学校
に学びました。中学時代に金田一京助などと出会ったことから文学に興味を
持ち始め、「明星」などを読んで与謝野晶子の短歌に傾倒したりしていました。
1901年には「岩手日報」に短歌を発表しています。同年10月には上京して
出版社への就職活動を行いましたがうまく行かず、結核の発病もあって1903
年には故郷に戻っています。この年の秋には啄木のペンネームを使い始めて
います。
1905年,再び滞在していた東京で第一詩集となる『あこがれ』をほぼ自費で出版、
同年中学の同窓生だった堀合節子との結婚式が新郎不在のまま盛岡市で執り行われ
ました。その後盛岡に戻った啄木は母校である渋民尋常小学校の代用教員として
家計を支えるようになります。この頃までが啄木の盛岡時代ということになりますが
啄木関連の場所を探ってみましょう。まず市内あちこちに散在する歌碑を見てみると。
さすがに出身地だけあって相当な数の歌碑があるようです。少しのぞいてみましょう。
まず盛岡駅前。ここには余りにも有名な「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな」。望郷的なこの歌は東京朝日新聞に勤務していた
時代の作で、やはり岩手山を念頭に置いたものと思われます。尚盛岡駅正面の
壁面に取り付けられている「も り お か」の文字は啄木自筆の文字を集めて
コラージュしたものです。市内中心部にある盛岡城跡公園(旧不来方こずかた城)
には「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸われし十五のこころ」があります。
こちらは金田一京助の筆になるもの。更に市中心部を流れる中津川に架かる富士見橋
の親柱には「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を 何と聴くらむ」が銅板
で嵌め込まれています。なんだかジンとしてきませんか?歌碑は郊外にもあります
(つづく)